西宮サドベリースクール・スタッフ/倉谷 明伸さん
「常識が通用しない」。
この言葉だけ聞くと、無法地帯のようで、あまりいいイメージではないかもしれません。
けれどもデモクラティックスクールでは、「みんなの意見が尊重されている」という、いい意味として使われることがあるのです。
スクールの和室に大きなローテーブルがありました。
そして、ミーティングで「このテーブルに座るのはいいかどうか?」ということが真剣に議論されたことがあります。
ことの発端は、生徒の子たちがテーブルに腰かけてギターを弾いたり、テレビゲームをしたりしていることをやめてほしい、というミーティング議題への提案でした。「テーブルの上に座るのは汚いから嫌だ」というものです。
さっそく、その日の終わりのミーティングでそのことが話し合われたのですが、これが議論がまとまらないまま、3回のミーティングにわたる大議論になったのです。
「机の上に乗っちゃダメなのは常識だ」。ひとりの男の子は言います。
「それにお尻をテーブルに乗せると、このテーブルでごはんも食べるし汚いじゃん」。別の子も追撃します。
「けど、この部屋は椅子がないから、ギターやゲームをするときにこのテーブルの高さはちょうどいい」。とさらに別の子が反論。さらに、この意見には何人かの子も賛成しました。
「じゃあ、お尻じゃなかったら、テーブルの上に寝そべってもいいの??」。
小学生の子の全く違った面からの素朴な意見でした。
常識派の子は「寝そべるのもダメに決まってるじゃん」とすぐに言いましたが、「なんで?」に納得のできるいい意見が出てきません。
ここから、ミーティングは「どうしてお尻をテーブルの上に置いてはダメなのか?」という根元的な議論に発展していきます。
議長をやっていた子がいろいろな角度からの意見を聞き、もともとの提案である「汚いからイヤだ」という意見を尊重しながら議論を進めることなりました。
では、「どういう状況なら汚いことに入るのか?」。
お尻は?、足は?、おなかは?、ひじは??
いろんな状況が飛び出し、どこが汚いか?ということをスクール全体の価値観でまとめようとするのですが、みんな育ってきた環境や価値観が違うので、なかなか統一ラインを決めることができませんでした。
完全に議論が行き詰まる中で、新しく出てきた意見が、「汚いという価値観は人それぞれ違う、ということを前提にしたルールづくり」。
どこをテーブルに置くのが汚いと規定してしまうのではなく、嫌な思いをする人が出てきたら座るのをやめよう、という、シンプルかつ柔軟な発想です。
結局、ルールとしては、
「お尻などでテーブルに座っていて、他の人から汚いからテーブルを拭いて、と言われた人はすぐにテーブルを拭かないといけない」。
というものに決着しました。
このルールなら、座ることが気にならない人ばかりならテーブルに座ることも許されているし、気になる人がいたら座るのをやめてすぐにテーブルを拭く。価値観が違っても、みんなが嫌な思いをしない、最善な決定が行われたのです。
その後、和室のテーブルは「テーブルがあると思いっきり暴れることができない」という理由で片づけられてしまいましたが、その後も同じようなカタチで「嫌な思いをする人が出たらやめる」というルールはいくつか作られいます。
もし、今回の議論を「テーブルの上に乗るのはダメだからダメ」。というような世の中の常識だけで片づけてしまっていたら、なぜこのルールが必要なのか?という本質にもさわることなく、またみんなが本当の意味で納得することもなかったと思います。
常識が必要ない、というつもりは毛頭ありません。
けれども、常識と思われているものでも、本当に考えてみれば、それは一時的・部分的にしか通用しないおかしなことだったり、時代に合わなかったりするものもたくさんあります。
「ただただ、決められたルールに忠実に従う」のではなく、「ルールの意味をじっくり考えて、納得たならきちんと従う」。「ルールが時代に合わなくなればきちんと話し合って最善のルールに変更する」。
みんながHappyであることを追求する小さな社会・デモクラティックスクールで大切にされていることは、そのまま実際の社会でも大切なことではないでしょうか?