児島いのり(まっくろくろすけ卒業生)インタビュー

2009年8月4日(火)

聞き手:ゆみ
話し手:児島いのり(18歳) 2007年3月卒業

まっくろくろすけ立ち上げの1997年参加。6歳から15歳まで9年間まっくろくろすけに通う。

卒業後、現在までどうしていますか。

ちょうど中学校を卒業するときにまっくろを卒業して、一回アルバイトをしてた。ふつうのファミリーレストランで一年半。してみて思ったことは、やっぱりしたいことを仕事にするっていうのは大事だなって。それと、いやいや仕事をするっていう気持ちをわかった。アルバイトするのはあこがれだったし、友達もいたし、楽しかったけど。でもやっぱり、自分の仕事にしたいことと違うなと思って。そのときは、バイトに行って、疲れて自分のしたいことも見当たらず。行きながら何かせなあかん何かせなあかんなあってすごいあせってた。

まだ卒業したら15とか16なんだけど。自己紹介のときになっても、自分が何してる人かって言えなかった。私はここでアルバイトをしてるとも言いたくないし、もうまっくろ卒業してるから、まっくろに行ってますっていう肩書きもなくなって。これといってがんばってることもそういえばないなって思って。それでもうちのお父さんって、何も言わずにいさしてくれるから、お父さんが見てくれてるから大丈夫っていう変な自信はあったけど、答えられるものがないっていうのはすごい負担やった。それで、私が何もしてないからお母さんはしんどいんだろうなっていう思いがあって。それで、何か身に付けたいなって思ってたし、したいことはいっぱいあったけど、やり出す勇気がなかなかなかった。

うちの近くにあった洋裁の学校に行くようになった。その学校は、ふつうの教室みたいな感じで学費もそんなに高くなかったし、けっこう自由な学校だった。休みたいときは休めたし。

そこは、服を作る技術は身につけられるけど、服の業界で働くっていうのに直結した学校じゃなかった。それでまた、やってることが意味ないんじゃないかなって思った。

服に関わりたいって、その教室に通いながら思ってた。でも、今すぐ働きたいわけじゃなかった。売る服じゃなくて、アートな服。アートの一種として、私はいいなと思ったところが服であった。コンテストで、自分の作りたい服を作って、評価してもらったりとか。そういうことが自分はしてみたかった。

それでそういう専門学校に行こうかなと思っても、高校卒業してないし、専門学校ってお金がかかる。行きたいところを我慢して、今やってることが自分にとってベストなんだって思い込ませるのに一生懸命だった。

けど、いろいろ調べて、専門学校ってのは別に高校出てなくても、面接を受けて行けるところもあるっていうのを知った。それに、自分がアルバイトしてるお金が、行けるところにあるなっていうぐらいたまってた。それで、受けて、行った。

今は、楽しいけど、何かもっといろんなことがしたくって。専門学校って、これに就職しますって決めてる人が、技術を身につけるために行く学校だから、この仕事につきたい人のためにみっちり組まれてる。卒業、就職を第一に考えた学校だから、ここでいろんなことを発見しようっていう大学みたいな感覚はなくって。私は、最初は絶対この道で行くって決めてたけど、行ってみて、写真も撮ってみたい、絵も描いてみたい、演劇もしてみたい、いろいろしてみたい、って思い出した。そうしたら、その一本それだけに一日中使って、二年間使って、ってなっていくのがしんどくなった。でもやっぱりすごい行きたくて、絶対私には行けないとこなんだ、高校に行ってないしお金ないからって思ってたところから、一回自分の力で行ってみて、それでやっぱり私は違ったかなって選べたのは、いきなりそこに行かずにこの道を一回通ったのは大きい出来事かな。結局は行かないで自由に毎日過ごすっていう道になっても。

 今これからしてみたいことを具体的に教えてください。

とりあえず世界一周がしたい。もう一回、イチから何もないところから、ゼロから何か作り上げていくことがしてみたい。世界一周だとしたら、どこの国に行くか、どうやってお金をためるか、どういう風に行くのか、イチから全部自分がやって。

将来は、田舎に暮らして、コミュニティがしたいなとずっと思ってた。近くに大好きな人たちが住んでて、同じようなものを食べたり分け合ったりしてるのがいい。自分の作った服とか、自分の焼いた器、自分の育てた野菜。ぜーんぶ自分の作ったことでできるだろうし。小物とか、服とか作るのが好きだから、それを作って、ここちゃん(姉)とお店をしたいなあって言ってる。

その前に旅で、世界一周をする。海外が好きで、いろんなところ見てみたいし、いろんなものを見たい。自分ができることをいろんな人に教えていけるだろうし。

景色も、写真で見るのと、本当に見るのと全然違う。すごい感動するし、「ああ、こんな景色あるんか」っていう景色が世界中にはものすっごいいっぱいあるんだろうなあって思うと、せっかく生まれてきたのにもったいないなって。地球っていうところをもっと楽しみたいなって。

行動する枠がすっごい広く感じる。何もしばられないって、超自由じゃんって。その人生がすっごいうれしくって。

これからしてみたいことは、言い出したらキリがないぐらい、細かいことがたくさんある。それをどうやって現実にしていこうかって、プロセスを考えることが、すごい楽しみ。夢広がる。

生き方として、どんなふうに生きていきたいですか。

最初っから安定を求めていくんじゃなくて、若いうちはやっぱり冒険じゃないけどいろいろ経験したい。ぜったい子どもがほしいし家族がほしい。

それで、コミュニティっていうのがあったんだけど、頭のなかで、すっごい飛び回ってる自分と、コミュニティを作ってる自分っていうのが二つある。その間を取るように生きていくのか、どっちかになるのか、どっちでもないかがわからないけど、今はすごいどっちもが・・・。だから、コミュニティになれば自分だけがやるわけじゃないから、してくれる人が、そのコミュニティにいてくれて、自分はいろんなところに行って帰ってきたり。っていう形が、すごくいいなあって思うんだけど。まだ両極端な、二つが。

まっくろを卒業してから、デモクラティックスクールなんて聞いたこともないって人に「学校に行ってない」ことを言うと、どっか印象が悪くて、世間の目は冷たいと思った。まっくろを卒業してても他の学校を卒業してても、何も変わらずに普通に社会でやっていける。したいなら就職だってできると思うし。小中と机に向かってなくても、私は人とコミュニケーションがとれるし、何も問題ないと思う。でもそう思ってない人もたくさんいて、まだまっくろを卒業した人の数も少ないし、年齢もまだ若い人が多いから、卒業してこんな風になりました、こんなことをしています、っていう例もあまり出せなくて、まっくろのことをいいように思ってない人に、自分が思うように伝えられなかったりした。自分の中では、別に今できてなくても、これから先、絶対にまっくろを卒業した人たちに私は不安を感じないのに!って思ってても、意見が違う人と話してたら不安になって、絶対に大丈夫やからきちんと社会でやっていって見返したいなって思いがすごくあったのと、就職をしてみたい、そういう世界も味わってみたいって単純に思ったから、専門学校に通おうと思った。自分がいいと思う生き方で生きていくのはいいと思うけど、やっぱりそれだけじゃなくて周りから認められたいって思ってるところもある。周りからいいように思われるように頑張るわけじゃないけど、周りの目をまったく気にしないで生きていける人じゃ自分はないから、両方があって、それで自分に自信をもって生きていきたい。

でも、見返したいとか、そう思ってがんばってると、どうしても疲れてきちゃって。それが、がんばる原動力にもなってたんだけど、本当の原動力にはならなかった。だから、自分がちゃんと自分でいられる所でがんばってたら、いつか認めてくれるんじゃないかな。って思うから、今は急いで就職しようとか社会で活躍しようとか思わなくて、いくら子どもっぽいと思われても、考え方が甘いと思われても、いっぱい遊んだらいっぱい働きたくなるだろうし、自然のままでいいなと思った。

今までは、学校行ってる子は行ってる子、自分とは違う世界の人。そういうふうに思ってるところもあって、自分がまっくろに通ってることとか伝えてわかってもらえなかったら悲しいから、あんまり話したくなかったし、きっとわからないやろうなって思ってた。まっくろにいる間は、出会う人もまっくろに関心があるような人が多かったけど、卒業してバイトとか学校に行き出したら、いろんな人に出会って、私の思う社会の「普通な考え方」みたいなのもわかってきて、その中にいたら、自分で自分が良く見えなくてそれが辛かった。

同じような価値観やったり、まっくろを受け入れてくれる世界にいたら、私は幸せでいられたのにな。って思ったけど、やっぱりたくさんの人と出会っていきたくて、もっと社会と私の育ってきたような世界が交わっていけばいいなって思ってる。自分もここだけにいたくないなって、もっと広い世界が見てみたいし、何でもできるって思えたのは、まっくろもこの生き方も今の社会の中にあって、別に違う世界にあるわけじゃない、もっと交わっていけると思ったから、すごい自由を感じた。

100%正しいって自分で思えたことが、違う場所へ行ってみたら、おかしいことって言われた。単純に、学校に行ってないって言ったときの、私を見る目。私はこの教育は間違ってないと思って生きてるのに、なんで私がしんどくなるん?なんで自分の信じてる思いがある人がしんどい思いをしてるんやろう…向こうの人は私達のことを悪くばっかり言ってくるって思ってた。でも今は違うって思ってる。みんな一生懸命生きてて、私が「なんでしたくないことしてんの?したいこといいやん」って言っちゃうと、その人達がやりたいこと我慢して、テストとか勉強とか一生懸命してたことを否定しちゃったんやなって、その生活の中にあった楽しみとかも全部。私は先に自分が傷つけられたと思ってたけど、お互いに不安とか違和感を感じてて、それを相手否定しちゃってる気がした。私だって自分の身が守りたかったし、向こうもそうやと思う。だから今は前みたいに自分を守るために一生懸命じゃないし、相手の生き方がどうとか思わないで、対等に人と話せる気がする。みんな何も変わらないなあって思ってるから、どこの学校に行ってようとなかろうと、一緒。そう思ったら、変な壁も作らないし。私だけじゃなくて、それが当たり前の世界になったらいいな。

将来、自分の子どもにどんなふうになってほしいですか。どんな過ごし方をさせたいですか。

子どもと話し合って決めるのが一番だし、やりたいようにさせてあげたいって思うけど、いろんな人と出会うのはすごい、楽しいこと。私が、人間がすごい好き、友達が好きっていうのがあるから、どんな学校かは別として、学校に行くことはすすめる、とは思う。やっぱり学校って出会いの場だし、いろんな先生、大人に出会う場でもある。親じゃない大人にも出会えるし、友達にも出会える。たとえば、一個の花を見て描いた絵、百人で描いたら一人一人違って、いろんなものもらってこれる。よりたくさんの人に出会っていってほしいなっていうのがあるから。

その子の性格にもよるけど、小っちゃいときから活発にいろんな子と遊びたいような性格だったら、たぶん小さいころから行けるように、こういうところもあるけれど、って言うかもしれないけど、そういうことにまったく興味がなくて、うちにいるだけでしあわせそうにしてる子だったら、ある程度の年まではなんにも言わないかもなあ。その子の「しっかりしてる具合」やと思う。いろんなとこ行って、自分でちゃんと考えて、自分のいる場所がこういうところって把握して、自分で選んで。それで、選んだらそれで終わりにならないように、いろんなところに自分で顔を出せるような。やっぱり一回学校に行ったら、行かないことに引け目感じてしまう自分もどこかにいたから、そういう気持ちにさせないようにしたい。自分で行ったり行かなかったりが当たり前なんだって、親だけが思ってるんじゃなくて、周りのみんなも思ってるよっていうことを伝えていけたら、自分で決めていってくれるかな。

メンバーで通っていたときの、印象的なデキゴトがあれば、教えてください。

小っちゃいときは毎日、おままごととか(笑)、ずっとまっくろでお店屋さんごっこしてたのが印象的。

 大きくなってくると、規模が大きいことするようになってくる。印象的なのは、アワーズ(フリーマーケット)。フリーマーケット係になるのが好きだったわけじゃない、楽しいけど、しんどくって。それでも終わった後に、ぜったい達成感があった。夜中までみんなでまっくろ家に残って、まっくろの紹介の紙を書いたりした。たこ焼きの準備をしたり。やってるときはすごいしんどいし、もうイヤ、なんでしてるかよくわからへんって思うのに、いっつも手を挙げてやってた。

あとは、ミーティングかな。ミーティング、一時期すごい長いときがあって。でも、小っちゃいころはずっと遊んでて内容なんて全然聞いてない、掃除のときしか出てなかった。とりあえず自分が掃除したくないとこにならないことだけを考えてた。でもそれがだんだん、絶対にミーティング出るようになった。まっくろのルールを全部把握しときたくって。知らないとこで決められたくなくなったから、きちっと出るようになった。子どものころは、総会も、はいはいはいオッケー、今までどおり今までどおり、みたいな感じだったのが、だんだん気がついたら出るようになってたけど、やっぱり小っちゃい子とか、うちより下の子は(総会で)「今までどおり、今までどおり」。トランポリン飛んでたりして、「ちょっと呼んでー」とか言ってて。小っちゃいころの私そのまま。私が卒業したら、そういう子らがそのままきっと、私らがしてたみたいに、ミーティングに出たいと思って、また小っちゃい子がトランポリン飛んでるんだろうなって思ったら、その成長ぶりすごいな。

 大きな物事を決めるのもあったけど、今日どこに遊びに行く?とか、そういうの決めるのに、何時がいい、何時がいい、とかいう話を昼ぐらいまでしてて、いや今出てたら昼帰ってこれるかよって。小さい子が、「イヤ、ぜったいイヤ」。「じゃあどうしたらいいんですか」って聞いても、「何も思い浮かばん、でもイヤ」っていうのがけっこうあって、機嫌が悪くなるとすぐそういうことを言い出して。どうやって言ったら、小さい子にもちゃんと伝えられるんだろう。イヤな思いしたらすぐにイヤって言うから、どうしたら小さい子がイヤな思いをせずに、ちゃんと自分がやりたいことを言えて、その子のことも組み入れていけるかなって。ミーティングでは、自分の思ってることを、自分の言葉だけで言ったら、知らない言葉が入ってるだけでもうぽかーんってしてるし、そこはすごい勉強になった。言い方、話し方一つで、返ってくる返事が全然違う。

社会に出るため、社会人になるために、まっくろにいてどんな準備をしましたか。

準備といっていいのかわからないけど、後から思えば社会で必要なことで、自分の中で大きな意味があったなと思うのは、ミーティングとかで人の意見を聞くチャンスがいっぱいあったこと。ひとつの物事に対して、自分の意見をきちんと言えて、人の意見をきちんと聞けたことがすごく良かった。時間をかけて、本当に思ってることを話し合っていった。その人は間違ってると思うからその人がこうしたらいいと思いますって、私の中で絶対そうだと思ってることを言った後に、いやその人はこういう気持ちでこうこうこうでって言われて、ああそうなんだ、って。それを、誰にも何も言わなかったら、もうパッてその人を罰してる。自分の中で百パーセント自分が正しいと思ってることを、いろんな角度でものごとを聞いたりとか、少しずつ時間をかけて、一人一人の本当の気持ちまで聞いていったミーティングをしてたら、人っていろんな考え方をするんだなってわかった。

ルールを破った人を裁くときも、自分達の作ったルールをどう使うかとか、その人の気持ちをちゃんと聞いて、適当なことで流したりしないで、なぜそうしたかをみんなが納得するまで話してた。自分達が必要で作ったルールなんやから、なんで破る必要があったのか考えるとルールの意味がわかるし、誰かが決めたルールをムリヤリ守ることがないと思う。

なぜだかわからへんことに我慢して、従うことに慣れていく。それは社会に出たら慣れてる方がいいことかもしれないけど、まっくろでは話し合って納得するってことをしてる。それがすごく良かった。今、我慢することもあるけど、そのことはすごく今の自分に影響してると思う。ずっと学校の先生は完璧やと思ってて、だって先生って「あれはいいこと」とかたくさん制約を作ってて、人の良いとか悪いとかまで決めちゃえるくらいの人なんやからって。でも、もし自分が100人の子どもの面倒見なきゃいけないって考えたら、大変なのも想像できる。一人ひとりが思うようにしてたら、先生の理解できないこともたくさんあるやろうし、自分の知らない道は先生教えてあげられないから不安なんじゃないかなって思って、その先がどうなってるかわからないことを子どもにさせるのって勇気がいるし、だから「そんなことをしたら社会に出れない」とか脅すようなことを言うのかなって思う。今、自分が教員免許をとって教壇に立ったとしたら、昔思ってたほど先生は完璧じゃないし、完璧なことを求めすぎてたなって今になったら思う。

まっくろのスタッフとは関わった時間が長かったのもあるかもしれないけど、同じ所にいて同じように不安やったり、悩んだりしてて、何かを良い事とか悪いとかそんなふうに言わないで一緒に考える。そこが先生とスタッフの違うところやなと思う。今なら先生も子どもを思っていろんなことをしてたんやなって思える、そのやり方がまっくろとは違うけど。ミーティングでスタッフも子どもも対等にしゃべることが一番大事。本当に一人一人の人が、ああ人間なんだなって心から思えるのは、やっぱりミーティングでぶつかり合う時間が長かったからかなって思う。